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宏己のぶらりぶらり
主宰 富阪宏己 の雑記帳
  2011年6月
月12日の「宏己のぶらりぶらりは下津井港を訪ねました。
降ったり止んだりの梅雨もよいの天候でしたが、まだかな橋から鶴井戸、亀井戸、祇園神社、遊女の墓と、巡って行きました。
印象に残ったのは、遊郭の名残のある、漁師町らしく入り組んだ、そして高台へと延びてゆく路地でした。
今では、北前船が寄港した頃の華やぎを感じる事は出来ませんでしたが、昼食場所に選んだ廻船問屋跡の休憩所に流れる「下津井節」の魚臭と哀調を帯びた民謡を聴いていると、往時へ誘われるようでした。
参加者は10名でした。

会は悦男邸に、お邪魔し、楽しい時間を頂きました。
奥様ともども歓待くださり、素晴らしい句会となりました。
  2011年5月
月の宏己のぶらりぶらりは、庭瀬周辺を歩いた。

 午前9時30分庭瀬駅前集合だったが、私は20分早く到着した。一番乗りだと誇らしげに立つと、すでに滋子さん、ひとみさん、由美子さんが到着していた。「早いなあ」と言っていると、桂之さんも、とっくに着いており、待つ間もなく純子さん、悦男さん、絹江さんと揃っていった。
誰からとなく、「津山から、牛二さんも来てるかも」と言い始め、慌てて牛二さんのケイタイに電話すると、「そちらに向かってます」と元気のいい返事。待つ間もなく、車を駐車場に停め、こちらに向かって歩いて来る牛二さんが見えた。

 5月8日は、よく晴れ、歩くと汗ばむような日だった。
吟行予定地の庭瀬城址、撫川城址は駅から以外と近かった。路地の入り組んだ、ごちゃごちゃした町を想像していたが、一戸建ての今風の家の並ぶ住宅地であった。城址も濠が美しく整備され、町を明るく見せていた。
一本の噴水拡げゆく水面 純 子
 一同、濠端を歩き、濠の景に見とれている風であった。
樟若葉鯉はゆるりと泳ぎをり 桂 之
 有名な撫川団扇が生業として成り立ったのは昔の事だと思うが、ゆっくりと歩くと、往時の景が彷彿とする町でもあった。ところどころに残る昔ながらの家屋や鉢植え、そして路地をそよぐ風は、この地の栄えた頃を思わせてくれた。
それぞれの路地にそれぞれ夏の風 牛 二
 路地とは歩くほどに見えてくるものかも知れない。車で走るには、整備された広い路がいいのだが、ぶらりぶらりと歩く分には、くねくねとした細い道がいい。そこには花が見え、風が見える。鳥や虫も見える。小さな花から花へと渡る蝶さえ見える。
路地多し同じ揚羽にまた会ひて 牛 二

養木堂の生家は、新幹線の高架の下を走る道路沿いに見えた。外から見ると変哲もなかったが、一歩、中へ入ると、緑豊かな趣のある屋敷だった。都市化の進む真っただ中で、厳然と古風を守っているかの様だった。まさに、犬養木堂である。
新緑へ放ちて暗き昔の家 ひとみ
 昔の家とは、なんと涼しいことか。今日の射るような日差しは、燃えんばかりの新緑に放たれ、座敷は暗く涼しいのである。新緑を見てきた眼には尚更だったろう。
座敷へ上がらせて頂いて思うのは、生活をしていない、雑多なものの置かれていない、広々として思う存分風の行き交う部屋は、夏座敷そのものなのだ。
板の間の人夏座敷見てをりぬ 宏 己
 廊下も板の間も、ひんやりとして気持ち良かったが、その冷たさが、そっくり青畳にも感じられるのだった。涼しさは暗さであり、なにより静けさであった。強い日射しを浴びた木々は眩しく光を返すが、座敷から見上げる樹には深い翳と静けさだけがあった。
しずけさや新樹ひかりの音をもつ 由美子
 庭へ出ると、当時、使用されていた井戸が残されていた。部屋の中は涼しかったが、一歩外へ出ると、日射しは夏である。みんな、夏帽子を被って井戸を覗いている。今は、井戸を知らない人が多い。井戸が日常から追われて久しい。しかし、古井戸を見ると何故か、人は近づいてゆく。そして、覗くのである。
四方より覗く空井戸夏帽子 悦 男
 このあと、片陰を借りて弁当を開き、句会場の公民館へと移動したのだが、今日は都市化された街の底で、密やかに生きる路地や昔の家を、狭間見ることができた。昔ながらの路地、昔の家に何故か安らぎを覚える。不思議な懐かしさを感じる。そんな、自分に出会った気がする。
吟行とは自分に出会う事でもあるのだ。

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  2011年4月
月のぶらりぶらりは、予定通り尾道へ出向いた。

 10日の朝、8時23分発の電車に乗るべくホームへ立つと、すでに由美子さんが到着していた。
岡山駅には山陽本線、瀬戸大橋線、津山線、伯備線、赤穂線等々と各線が集結する。幾筋ものホームが平行に並ぶ。それに新幹線のホームを加え、県の要の駅らしい複雑さだ。
同行の仲間は、それぞれの地域から各線に乗って岡山駅へ集結する。私は瀬戸大橋線に乗って岡山駅へ着いた。由美子さんも同じく瀬戸大橋線だが、一便早く着いたようだ。尾道へ向かう山陽本線が通る2・3番ホームで仲間を待っていたのだ。

 3番ホームの側に大勢の人が列をなしている。
「こちらは後部座席の方でしょうか?皆さん、前の方に乗られるとか」
「電車が進んで来る方が前じゃないかな」
「どちらの方向から来るのでしょうか」
「どっちかなあ。尾道はどっちかなあ。姫路の方からくるけど、姫路がどっちか分からん」
由美子さんは呆れかえった顔になり、急いで電車を待つ人の列に着いた。
しばらくして、電車が入って来た。由美子さんが颯爽と乗りこんだ。そして、席を確保した。私は小さくなって由美子さんの横に座った。

 この電車は尾道へ行かないと内心、私は思っていた。発車が近いことを告げる放送が聞こえた。
「由美子さん、この電車は違うよ。降りようや」
由美子さんは怪訝な顔になった。うっかり出て、電車が発車すると取り残されてしまう。仲間は先頭車両に乗っているかも知れないのだ。
私が電車を出て、しばらくして由美子さんも出て来た。電光掲示板を指さして言った。
「あの電車はなあ、高梁の方へ行くらしいよ。尾道へ行くのは2番ホームへこれからは入ってくる」
このとき、滋子さんが近づいて来た。由美子さんの表情がほっとした感じになった。

 JRを利用しての旅には乗り換えがある。終着駅へ着いて、次の電車へ。途中下車して、次の電車へ。
まるで人生の転職のように。再婚のように。
何より人の波に巻き込まれ、流れに押し流され、自分の判断が失くなりそうにも。東日本大震災で、時代の価値観が変って行く今は、見知らぬ都会の駅で人の波に呑まれてしまいそうな時かも。

 9時40分、純子さん、ひとみさん、滋子さん、絹江さん、桂之さん、悦男さん、由美子さんと揃って尾道へ着いた。

道と言えば、文学の街、映画やテレビのロケ地、千光寺公園の桜などが即座に思われる。なんと言っても、林芙美子の「放浪記」が有名。駅前の東、商店街の入り口には芙美子の像があり、その台座には「海が見えた 海が見える 五年振りに見る 尾道の海は なつかしい 放浪記より」とある。

 ロケ地と言えば、ここは大林宣彦監督の出身地ゆえ、(転校生・時をかける少女・さびしんぼう)他の映画の場面が浮かぶ。尾道がロケ地となった映画は、うず潮、裸の島、暗夜行路、憎いあンちくしょう等々、上げてゆけばキリがない。50年以上昔に撮影された「東京物語」には当然、当時の尾道が写されている。この映画の語る<崩れてゆく日本の家族制度>は、まさに50年後の現代のテーマであり、浄土寺の境内で尾道水道を見つめる笠智衆の姿は印象深い。

 さて、今日は桜だ。7分咲きか、8分咲きか分からないが、この艶やかさは満開そのものだ。千光寺山が花に埋もれている。

 ひとみさん、桂之さんと、昼食兼句会場とするレストランを探して商店街を歩いたが、花見客が多すぎて、延々と句会など出来そうもない。他の面々も探してくれたが駄目だ。平生はガランとした商店街も、今日の人出こそ稼ぎ時なのだ。
「千光寺まで上れば、ちょっとした店があるかも、弁当を売ってるかも」
ロープウエイは使わず、急な坂道を歩いて上ることにした。なんとなく、途中に弁当屋がありそうな気がしたし、句友の佳句が展示コーナーで見られそうだし。
路地めきて花の坂とは急なりき 宏 己

 それは花の迷路と言いたいほど複雑に絡み合った道である。この坂道を大勢の花人が上ってゆく。麓には民家。そして、廃屋。別荘。店も弁当屋もなかった。
健脚の悦男さんが、先陣をきって展望台あたりまで行き、弁当屋を見つけ、一同の弁当を確保してくれたので良かったが、弁当も売り切れとなるほどの人出だった。
風光る軒寄せ合へる坂の町 純 子

 結局、昼食と句会は、中腹で見た志賀直哉旧居の傍の四阿を使うことになった。
一歩づつ花の雲へと下りけり ひとみ

 急な石段は下りが危険。若い母親がみどり子を抱いたまま転倒する場面にも遭遇した。まさに花人のラッシュであり、花に視界を遮られる感があった。
名刹へ花の朧を潜りゆく 由美子

 尾道は花見句会としては成功だった。降りそそぐ日差しは汗ばむほどであった。
しかし、私が捉えられたのは花ではなく乗り換え駅であった。東日本大震災の後の、時代の乗り換え駅に降り立った私たち。この花の盛りに。
乗り換えの小さな駅や花盛り 悦 男

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  2011年3月
月の宏己のぶらりぶらりは、旧閑谷学校へ出向いた。3月13日とし、山陽本線の吉永駅11時集合とした。
昼食を兼ねて句会のできる店として、私好みの茶房を一軒、決めていた。当日の2日前の夜、予約の電話を入れたが通じなかった。次の日の朝にも入れてみたが、やはり通じなかった。当日の朝、岡山駅から入れてみたが、やはり通じなかった。

 悦男さん、ひとみさん、滋子さん、由美子さん、純子さんと吉永駅へ下りると、すでに津山から牛二さんが馳せ参じていた。一同、張り切った感じだ。いまにも、今日の句会の出来る場所は?と聞かれそうだ。店の方向を指さし、店の前に立ったが、「臨時休業します」と、札が貼られていた。拙い事になったと思った瞬間、一昨日は3月11日、東北巨大地震の日だ!だから、電話も通じなかったんだ。不吉な連想が押し寄せてきた。

 西日本に住んでいても、親子、兄妹、友人、知人が東日本に住む人は多かろう。現地と連絡がとれない人が殆どだろう。街ごと津波に呑まれてゆく画面が眼の前に再現された。それは、打ち消しても打ち消しても、押し寄せて来るのだった。臨時休業の理由は分からない。たぶん、地震とは関係ないだろう。しかし今は、なにもかもが地震と繋がって思える。

谷での、今日の吟行のメインは花が盛りの椿だったが、まだ時期が早過ぎ、さむざむとした椿の林があるばかりで、一輪か二輪、小さな花を見つけるのがやっとだった。でも、椿は咲かないほうがいい。咲けば、やがてぽとりと地に落ちるから。ここでも、水が引いた後の、汚泥に埋まる遺体が重なってくるのだった。

椿山一花に集めたる日差 純 子
遺髪塚へと万蕾のやぶ椿 ひとみ

 一同、早々と椿の林を後にすると、梅林を経て国宝でもある講堂へと散って行った。梅林も未だ咲ききっては無かったが、幾本かの紅梅が狂ったように咲き、数知れないほどの羽虫が群がっていた。ここでも私は、遺体に群がるハエをみるようで、幾度も目を逸らしていた。

梅が香に蜂の群がる一樹かな 悦 男

 吟行に集中出来ない自分に苛立ちながら、春風に誘われ歩くと、広い敷地の中に建つ講堂に春風がそよぎ込むのが見渡せた。

春風を通す講堂あけ放ち 牛 二

 結局、昼食は弁当となり、梅まつりの屋台で仕入れ、近くの山湖のほとりの公園に向かった。牛二さんの車に乗せてもらった私は、皆んなより早く着き、湖水を眺める時間がとれた。光や風の具合によって微妙に変化する、湖水の色の模様を的確に詠むチャンスだと思った。しかし、ここでも湖水の水は盛り上がり、津波となって迫って来るのだ。そして、湖水を囲む山が津波に思えてくるのだ。
ふと、気がついて、もう皆んな着いたかなと振り返ると、とっくに昼食をすませ、句会の始まりを待っている。考えられないほど長い時間、私は湖水を見ていたのだ。

みづうみの蒼に触れゆく木の芽風 由美子

 私は何も詠めなかった。現実に起こっ想定外の災害に圧倒されているだけなのだ。冷静に着実に一句、一句詠むこと。私の現実をみつめて。それは、被災者となったとき、被災者として現実を詠み今日を乗り越えてゆくことだ。

閑谷の春の勢ひも怖ろしく 宏 己

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  2011年2月〜3月
月の宏己のぶらりぶらりは、アンソロジー合歓の合評会と重なり、合評会の始まる前の1時間余を、倉敷大原美術館前を流れる倉敷川を見たに過ぎなかった。
底冷えの厳しい日だったが、純子さん、ひとみさん、滋子さん、絹江さん、悦男さん、宏幸さん、一志さん、武彦さんと男女こもごも句帳手に、川岸に立ち、太鼓橋である中橋に立ち、川面を見つめた。昔ながらの川船渡しの遊覧客の嬌声と対照的なほど、静かなグループだった。

 私は内心、2月のぶらりぶらりは無理だと思った。
美術館前の川を書けばいいのだが、気が進まなかった。
気が進まないまま3月を迎え、3月11日に遭遇したのだった。東日本大震災である。
大津波になる、と思った瞬間、何故か大原美術館が浮かんだ。
美術館前から藤戸を経て児島湖へ到達する倉敷川の行程が浮かんだ。津波が逆流し、美術館を呑みこむ事などありえないが、一瞬にして、世界の名画がさらわれてゆく様が脳裏をよぎった。
私は東北に地震だと聞かされて、随分経って、テレビを覗いた。そこには想像を絶する惨状が、まさに津波の如く迫っていた。

は、宏己のぶらりぶらりで路地を書きたかった。路地を歩いて出会う人との一期一会を書きたかった。
一瞬にして、日本列島が粉々になる。あり得るのだ。一瞬にして、今日までの生活が波に呑まれてしまう。あり得るのだ。愛する者の生命までもが。

 路地を書きたい。都市化の波に呑まれてきた路地を書きたい。路地にしがみつき、したたかに生きる人々を知りたい。その人たちとの出会いを書きたい。一期一会を書きたい。
それは、東日本の被災者の今日と重なるかも知れない。昨日も明日も喪った方々の、今日を生きる心と。
明日が見えない絶望のなかでも、否、だからこそ、足元に咲く名もなき花を愛でる心と。

 日本は変るかも知れない。私たちの暮らしは変るかも知れない。厳しく暗くなるかも知れない。暗ければ暗いほど見えてくる一条の光を、希望をかくための、宏己のぶらりぶらりとしたい。
そのために路地を歩こう。一期一会の方々から希望の光を貰おう。

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  2011年1月
霙るるや倉街海の底となる  宏己

 2011年1月より、合歓の会のメインの句会をネット句会とした。
それは、県内外の何処に住んでいる人も、病気や家庭の事情等で、句会への参加が難しい人も、みんな参加できる句会をとの、切望による。
今までの毎月、第2日曜日の句会の発展的解消である。
第2日曜日が空いたのを幸いに、その日にはぶらりぶらりと吟行でもするか、と思いたった。宏己のぶらりぶらりの開始である。
宏己一人になるか、五人になるか、十人になるか、先の事は分からない。自由気ままな吟行会の始まりである。

 その第1回は、1月9日とし、世界に名の知れた大原美術館のある倉敷とした。
400年前、大原美術館の辺りは海の底だった。倉敷の総氏神・阿智神社が建つ鶴形山と小町の姿見の井戸を置く向山が、島として海の上に見えていたと言われる。鶴形山の麓、昔ながらの町屋が連なる本町通りは、波の寄せては引く渚であったに違いない。
この日の宏己のぶらりぶらりは、この本町通りから観龍寺を経て、西参道の、棟方志功の「裸体観世音図」と「万里水煙長航又何処」の文字の刻まれた“時の鐘”を横に見ながら、隋神門へと向かった。
ここから、さらに歩を進め、芭蕉堂を覗き拝殿へと辿り着くのが、今日の予定だ。

 メンバーは合歓の会の綺麗どころ、純子さん、滋子さん、絹江さん、ひとみさんが、お伴である。
お伴というよりは、俳句に出会いたい一心という四人である。
観龍寺では年末張り替えた真っ白な障子に夢中。その白さに呼び寄せられたかのような風花に息を呑む。四五本の水仙の小花に止まる風花がいじらしい。四人の眼が嬉々としている。
次に、四人が心を向けたのは芭蕉堂ではなく、拝殿付近で激しくなった霙である。強風に吹き飛ばされてゆく霙である。木木の枝がちぎれんばかりに吹かれている。それを見つめる四人の眼は、獲物に銃を向ける猟師のように凄まじく、妖艶でもあった。
私は怖れおののきながら、何故か嬉しかった。それは彼女たちが求めているものが名所旧跡ではなく、自然の息づかいだと知れたからである。
私は同行した四人の後を嬉しげに、そして怖々歩いた。
鶴形山を下りた四人は、さっそうと本町通りの、句会場ジャズ喫茶「アヴェニュー」に向かい、右手のボールペンを左手に持ち替えると、ヴァイオリンを弾く手つきでジャズの扉を押すのだった。

冬帽子ぶらりとジャズの扉押す    ひとみ

突如として、眼前にグランドピアノやサックス、ギターやトロンボーン、そしてドラムスが黄金の光を放つ。
句会の始まりである。

☆句会に出された句より。

底冷やジャズの音色の染みゆきて 宏己
のど飴をなめて倉街初吟行 悦男
格子ぬけ障子明りとなる日差 純子
蔦枯れて煉瓦も枯れてゐたりけり ひとみ

※悦男さんは句会にのみ参加くださいました。

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